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広島観光タクシー BLUEBLUEは、宮島、岩国 錦帯橋、広島 原爆ドーム、広島 平和公園、広島城を観光案内する、広島観光タクシーです。
広島観光タクシー BLUEBLUEは、広島県 広島市から出発して、角島、萩、出雲、松江、山陰を観光案内している、広島観光タクシーです。

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山口観光

防府 毛利邸
防府 毛利邸
防府 毛利邸
防府 毛利邸
毛利邸(もうりてい)は、毛利氏が近代(江戸時代後)に建てた邸宅です。
現存する毛利邸には、山口県防府市にある毛利宗家の本邸
(現在の毛利氏庭園と毛利博物館)と、下関市にある長府毛利家の邸宅
(長府毛利邸)明治維新後に爵位を得て公爵となっていた
旧長州藩主毛利氏の毛利元照が、国許に建てた邸宅と庭園。
東京では無く山口に場所を定めたのは、明治23年(1890年)に
毛利元徳が定めた家憲により、公爵毛利家の本拠は山口の
「土地健康にして且つ交通便利の地」にすることが規定されていた事によります。
東京の高輪邸(後述)や、江戸時代に三田尻に建てられていた三田尻邸
(三田尻御茶屋)に対して、多々良邸(又は防府邸)とも呼ばれていました。
完成直後に大正天皇が宿泊されたのを始め、
その後の何度か天皇・皇后が宿泊しています。
現在では、邸宅・庭園をあわせて国指定の名勝となっています。
また、邸宅の一部が毛利博物館となっており、
国宝や重要文化財など2万点を所蔵・展示しています。
所在地は、防府市多々良一丁目15番1号。

邸宅
元長州藩士で当時内務大臣であった井上馨が、
多々良山の南麓に場所を選定したとされます。
敷地面積は約53,000平方メートル。
本邸は、建築面積1,002平方メートル、
10棟60部屋から成るヒノキ造りの木造瓦葺き。
軒唐破風付きの車寄せや格天井の広間などの書院造を踏襲した和風建築であるが、
シャンデリアの電灯と備え、
椅子とテーブルを備えた絨毯敷きの応接室(唯一の洋室)もあります。
また、建材にコンクリート
(堀や柱の中空部分や石垣の裏側をコンクリートで補強している)や
トタンを用いたり、湯殿には大理石の浴槽に湯の出る蛇口を備えるなど、
当時の最新技術が随所に用いられていました。
なお、屋内外の電灯に供給される電力は、海外から輸入した電灯用瓦斯
(ガス)機関による発電機によるもので、日中に発電機を稼働させて蓄電し、
夜に電気を利用していました。
総工費は当時で約38万円(現在価格で150億円程度)とされています。

庭園
旧山陽道(西国街道)に面した入口から薬医門式の表門を経て
邸宅玄関前まで続く路傍庭園、玄関前の前庭、
中雀門(ちゅうじゃくもん)から入る内庭で構成されています。
中庭には、面積7,934平方メートルのひょうたん池があり、
自然林なども調和させた壮大華麗な庭とされます。
園内に、ウメ・サクラ・ツツジ・ショウブ・フジ・モミジがあり、
四季折々の景観が見られます。
なお、庭園の外側(南側)には長池と呼ばれる壕があります。
広島観光タクシー BLUEBLUEも大好きな日本庭園です。

毛利博物館
雪舟の四季山水図(国宝)、毛利元就自筆の三子教訓状(重要文化財)など
約2万点の文化財等を所蔵する博物館です。
昭和41年(1966年)に発足した財団法人
(現・公益財団法人)防府毛利奉公会により開設されます。
当初は、宅内の子供部屋を改造して展示室としていたが、
国・山口県・防府市等の補助も受けながら徐々に拡大され、
現在では2つの展示室と収蔵庫を備えています。
毎年11月に国宝展が行われ、多くの国宝・重要文化財を見ることができます。



山口 瑠璃光寺
山口 瑠璃光寺
山口 瑠璃光寺
山口 瑠璃光寺
瑠璃光寺(るりこうじ)は、山口県山口市香山町にある曹洞宗の寺院です。
山号は保寧山、本尊は薬師如来。国宝の五重塔を中心として、
境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっています。
大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、
「西の京・山口」を代表する観光名所となっています。
香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして国の史跡に指定されています。

五重塔
国宝。
大内文化の最高傑作といわれます。
室町時代、芳吉2年(1442年)頃の建立。
屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・
奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもあります。
高さ31.2mで屋根は檜皮葺。
二層にのみ回縁(まわりえん)がついているのが特徴です。
建築様式は和様ですが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須弥壇など一部に
禅宗様(唐様)が採り入れられています。
夜間は年間を通して日没~23:00までライトアップされており、
周囲に咲く季節の花々とともに美しく浮かび上がってます。
広島観光タクシー BLUEBLUEもオススメの
ライトアップの五重塔はとても綺麗です。



萩 松下村塾
萩 松下村塾
萩 松下村塾
萩 松陰神社
広島観光タクシー BLUEBLUEが、紹介するまでもなく、
みなさんご存じの萩 松陰神社と萩 松下村塾です。
松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、
長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾です。
吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、
幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られます。
29歳で刑死した師匠の松陰はじめ、本塾の主要な関係者の多くが、
幕末の動乱期に若くして死にました。
また維新後にも多くの門下生が、萩の乱に参加して刑死し、
主催者の玉木文之進も責任を取る形で切腹死しています。
しかし、生き残った伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、
松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵など多くの卒業生が師や先輩の意志を継ぎ、
幕末の動乱を経て成立した明治政府の首脳となり、
明治期の日本で活躍して、近代日本国家の基礎を築いたのです。
1842年(天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が
八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、少年だった松陰も入門しました。
文之進の指導は非常に厳格なもので、松陰が授業中、
顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わっています。
ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、
塾生の教育にあたりました。
松下村塾は武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れました。
明倫館は士分を認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん、
武士に仕えながら卒(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽・
中間なども入学できなかったのと対照的でした。1857年(安政4年)より、
藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を引き継ぎました。
名簿は現存しないが、塾生は約50名ほどいました。著名な門下生には、
全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、
寺島忠三郎等、また藩論を倒幕にまとめ幕府軍を打ち破った高杉晋作がいました。
高杉晋作、久坂玄瑞は、「職の高杉、才の久坂」と称され、
「松下村塾の双璧」と呼ばれました。
また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、
さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称されました。
出身者には、前原一誠や飯田俊徳、渡辺こう蔵(天野清三郎)、松浦松洞、
増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、
杉山松助、久保清太郎、生田良佐、堺次郎、宍戸たまき(山形半蔵)らがいます。
桂小五郎(後の木戸孝允)は塾生ではないものの、
明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けています。
井上馨はよく松下村塾の塾生を間違えられることが多いが、
高杉・久坂らと関わりは深いものの松陰の教えを直接うけたことはありません。
また乃木希典は玉木家の親戚にあたり、
塾生ではないが一時玉木家に住み込みで文之進から指導を受けました。
講師には松陰のほかに富永有隣がいます。
1858年(安政5年)、松陰が野山獄に再投獄され、
また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶しました。
慶応二年にいったん再開し、馬島甫仙、河合惣太郎等が教授にあたります。
明治4年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾の場所を自宅に移しました。
以後の塾舎として使われた玉木文之進の旧宅もまた、萩市内に保存されています。
萩の乱に前原一誠など元塾生の多数た参加し反乱の罪に問われたため、
乱の鎮定後の1876年(明治9年)に責任を感じた玉木が切腹し、
再度途絶。1880年(明治13年)頃に松陰の兄の杉民冶が塾を再開しました。
1892年(明治25年)頃、杉が老年に至って閉塾しました。



萩城跡
萩城跡
萩城跡
萩城跡
萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城です。
別名・指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されています。
関ケ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国・
長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、
広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城です。
完工は慶長13年(1608年)だが、
築城者である毛利輝元は慶長9年12月に未完成のまま入城していました。
指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と
山頂にある山城(詰丸)で構成されています。
本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、
250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、
明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により
櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存しています。
現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真でみることができます。
現在、二の丸土堀や三の丸総門など一部は復元されています。
さらには、破却された天守など建物の復元を行う動きもあるが、
財源の問題で難しくなっています。
現在は指月公園(しづきこうえん)として整備され、
二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、
松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっています。
指月公園横の萩 西の浜は、
広島観光タクシー BLUEBLUEのイチオシの夕日スポットです。



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